ベッドの上の台に置かれたパソコンの画面に、文字が表示されています。
「画面に打って答えますので、なんでも聞いてください」
――呼吸はしやすくなりましたか。
「これを使うようになってから、楽になりました」
筆者と“画面筆談”で取材に応じてくれたのは高野元(たかの・はじめ)さん、53歳です。2014年秋、高野さんは難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されました。
ALSは、脳や末梢神経からの命令を筋肉に伝える運動神経細胞が侵される病気で、映画『博士と彼女のセオリー』になった高名な理論物理学者、故スティーブン・ホーキング博士もALSを患いました。現在、国内には約9500人のALS患者がいるとみられています。
高野さんが体の異変を初めて感じたのは13年1月、テニスをしている時でした。高校時代から慣れ親しんできたテニスのプレー中に、理由なく転んでしまったのです。ALSは病気が進行すると手足や喉など全身の筋肉がやせ細り、力が入らなくなります。
高野さんはALSと診断された2カ月後の14年11月には足腰の自由がきかなくなり、移動には車椅子が必要になりました。次第にしゃべることが難しくなると会話はパソコンへの手入力で行い、手が動きにくくなった昨年4月からは視線入力による方法に切り替えました。慣れるまでには3カ月かかったそうです。
高野さんは昨年、喉から肺に空気を送る気管を切開しました。ALSの進行で呼吸筋を動かしにくくなってきたためです。私たちは呼吸をするときに胸郭(肺の骨格)を広げたり縮めたりする呼吸筋を使います。呼吸筋が弱まると、咳き込んだり、痰を出したり、深呼吸ができなくなってきます。
そうなると気管に食べ物や飲み物が誤って入る誤嚥(ごえん)が起きた際に、咳き込んで「異物」を吐き出すことが難しくなります。誤嚥で肺にトラブルが生じるのを防ぐため、高野さんは気管の入り口を完全に塞ぎました。呼吸は気管を切開し、そこに人工呼吸器をつないだカニューレ(管)を挿入して行っています。
硬くなった肺を柔らかくする
呼吸筋を動かしにくくなり、気管切開までした高野さんは、毎日ある装置を使って訓練をしています。「LICトレーナー」と呼ぶ装置で、冒頭の会話で高野さんが「これ」と紹介してくれたものです。下の写真の左にある白い機器で、手動のポンプ(下の写真右)を接続して肺に空気を強制的に送り込む装置なのですが、人工呼吸器ではありません。
この装置は「肺を柔らかく」して肺の機能が衰えるのを防止し、本来の機能を取り戻すための訓練で使います。製品名に「トレーナー」がつく由縁です。「肺を柔らかくする」とはどういうことでしょうか。
ALSが進行すると呼吸筋を大きく動かすことができなくなり、硬くなっていきます。運動不足が続くと体が硬くなるのは、使わなくなった筋肉が硬くなったためです。呼吸筋が硬くなると、肺に空気が出入りしにくくなる「無気肺」と呼ぶ症状をまねき、呼吸が困難になるなどの障害をきたすようになります。ALSと同様に難病で、体の筋肉が壊れやすくなる筋ジストロフィーも、進行すると呼吸が困難になります。
LICトレーナーは、動きが弱くなった肺に強制的に空気を送り込み、そして吐くことで、肺をストレッチして「肺や胸郭を柔らかくする」装置です。衰えた胸郭の機能を訓練で維持や回復するリハビリをして、呼吸がしづらくなったり、自分で痰を出せなくなったりする障害を抑えるのです。
「息ため」で肺をストレッチ
使い方はこんな具合です。まず肺が目一杯空気を吸い込めるまで空気を送り、次にその状態で一定の時間を保つ「息ため」を行い、それから空気を吐きます。息ためは、肺の隅々まで空気をいきわたらせて呼吸筋をストレッチするためです。LICトレーナーでは、空気を送り込むときに逆流を防止し、疑似的に息ためができる機能を持っています。これによって気管切開した人でも、肺の訓練を続けられるようになったのです。
実はLICトレーナーが販売される前から、ALSや筋ジストロフィーなどの神経筋疾患の患者には肺の訓練が行われていました。MICと呼ぶ方法で「最大強制吸気量」を意味する英語の略称です。この訓練では、患者の口と鼻を覆うマスクをチューブでつないだ蘇生バックに、介助者が「一、二、三」と掛け声に合わせて圧力をかけて空気を肺に送り込みます。
その空気が漏れないように患者は喉で息を止めつつ、入ってくる空気で肺を膨らまし、限界がきたら一気に吐き出します。これを複数回繰り返すのを1セットとして、毎日数セット行います。ただし、MICには限界がありました。高野さんのように気管切開して、自分の力で息ためができない人には使えないのです。
出所:カーターテクノロジーズ
「息ため」ができない人でも肺のリハビリを行えるLICトレーナーを開発したのは、国立精神・神経医療研究センター病院の理学療法士である寄本恵輔さんと、同僚で同じく理学療法士の有明陽佑さんです。理学療法士は、身体に障害を持つ人が基本的動作の回復や維持、障害が悪化することを予防するために、体操や運動、電気刺激など物理的な手段を使って医学的なリハビリを行う専門職です。
寄本さんは、食物を細かくなるまで噛む咀嚼や、口の中の食べ物を胃に飲み下す嚥下(えんげ)が困難になる患者や、気管切開をして自分では息を止めることができない患者が、「MIC訓練」と同じことができないかと、12年頃から研究を始めました。
そこで目にしたのが、08年に海外で研究論文が発表されていた「LIC」でした。LICは先のMICと同じく「最大強制吸気量」を意味する英語の略称です。同じ意味ですが、LICにはMICにない3つの仕組みが実装されています。
1つ目は、肺に空気を送り込む際に空気が逆流しない「一方向弁」です。先に紹介した息ため機能です。2つ目は、患者が限界を感じたら空気を解放できる「リリーフ弁」です。患者のタイミングで空気を吐き出すためのものです。
3つ目が「安全弁」です。患者が急に咳き込んだり、息を吐き出すタイミングを逃してしまったりして事故が起きないように、急に高い圧がかかったときには自動で空気を解放するためのものです。
寄本さんは患者と接する中で、「自宅でリハビリできる環境づくりが何よりも重要だ」という思いを強くしました。最初に勤めた国立病院では、救命救急に明け暮れていた寄本さん。当時は、ゆっくりと一人の患者と向き合える状態ではありませんでした。その状況が変わったのは、国立病院を辞めて神経難病を専門にするクリニックに移ってからでした。
人工呼吸器を付けるなど医療依存度の高い患者が在宅生活している姿を目の当たりにし、自宅で過ごすことの大切さを知りました。転機になったのは新潟病院の中島孝院長との出会いです。中島医師の勧めもあり、リハビリ先進国の英国で研修を受けに行くと、「治らない病を持つ患者が前向きにいきていくためには、リハビリが重要な役割を持つ」ことを痛感したのです。
「自宅でできるLIC」を目標に開発を始めましたが、簡単ではありませんでした。開発を始めた12年当時は市販で使えるものがないため、部品を自作していました。しかし、通常の仕事の合間を縫って自作していくには限界があるため、外部の協力先を探し始めました。
金属加工のベンチャーが開発に協力
国立精神・神経医療研究センター病院には、企業との共同開発をサポートするTMC(トランスレーショナル・メディカルセンター)部と呼ぶ部署があるのですが、最初の企業探しは製品開発を提案する医療関係者が探さなくてはなりませんでした。寄本さんたちはパソコン検索で会社探しをする日々を過ごします。
検索を繰り返すうちに「ここだ!」と彼らの目を奪った先が、カーターテクノロジーズ(埼玉県川口市)というものづくり企業でした。同社は13年に設立された金属加工を専門とする医療機器開発ベンチャーで、医師の術式に合わせた一品モノに実績があります。
同社とは14年5月からLICトレーナーの共同開発が始まりました。新しい機器の開発には試行錯誤がつきものです。LICトレーナーもその例に漏れず、試作1号機では圧を加えると空気が管から漏れ、2号機は強い圧力をかけないと空気が入らず、3号機は空気を入れる時に不快な音が出ました。
こうした課題を解決し、足掛け2年で製品化に漕ぎ着けました。当初の計画では金属で製品化する予定でしたが、途中から樹脂に変更しました。専門外の樹脂加工の技術を使うことになったのですが、信頼できる樹脂加工会社と連携して実現させたのです。
「必要な機能を設計に綿密に落とし込めば、材料が違っても性能は維持できるもの」と同社は語ります。「願いを託して全力投球したら、全力で投げ返してくれた」と、寄本さんはカーターテクノロジーズの人々と初めて会った時のことを振り返ります。
「LICトレーナー」の販売開始後、寄本さんは全国各地でこの装置を使った呼吸リハビリの講演活動に勤しんでいます。「人間は道具を使って進化してきた動物です。体が不自由になっても、道具を使うことで、少しでも快適な生活を取り戻せるのです」(寄本さん)。
冒頭に登場した高野さんもその一人です。14年11月から高野さんは毎月、肺活量と最大強制吸気量を測定してきました。開始当時の肺活量は4500ml(ミリリットル)、最大強制吸気量は5200mlと、成人男性の平均以上の値が出ていましたが、時間が経つにつれて低下していきました。
「LICトレーナー」を購入した17年3月には、肺活量が1200ml、最大強制吸気量が2800mlまで落ちていました。それが毎日5回のLIC訓練をするようになると、どちらの値も回復に転じたのです。購入から2カ月後に気管切開をすると、肺活量は低下してきましたが、最大強制吸気量を今年3月に4200mlまで回復しています。
高野さんがLICトレーナーを使うようになったのは、寄本さんと出会ったことがきっかけです。聖マリアンナ医大病院でALSの告知を受けた2カ月後の14年11月、高野さんはセカンドオピニオンを求めて国立精神・神経医療研究センター病院を訪れました。それから寄本さんのもとに通い始めました。
「通い始めて半年後の15年5月に、寄本さんから呼吸のリハビリについて説明を受けました。その説明に感動してブログに書きました」と高野さん。「LICトレーナーは、治療法がない神経難病の呼吸管理を支えてくれます。でも、ほとんど知られていません」という高野さんは、毎年3月31日の誕生日ころに100人規模のイベントを主催しています。
今年の53歳の誕生日パーティには「呼吸リハビリについての話をしてほしい」と、寄本さんを招いたと言います。上に掲載している高野さんの呼吸のチャートは、この日のために寄本さんが用意したものです。
寄本さんいわく、高野さんのように活動的な人は少なく、病気の進行とともにふさぎ込んでしまう人のほうが圧倒的に多いそうです。難病の患者が少しでも前向きになれるよう、これからも研究に取り組んでいきたいと話します。
構成/真弓重孝=みんかぶ編集部
記事内容は執筆時点(2018年11月)のものです。最新の内容をご確認ください。